昭和54年1月18日月次祭
「信心とはわが心が神に向うのを信心というのじゃ」と。これは信心とは、( ? )なって、金光教の信心とは、ということに、でしょうね。金光教の信心は、わが心が神に向うのを信心というのじゃと。ところが、信心を求めず、いわゆる主客転倒で、おかげを求める心が強い。いわば、我情我欲が強い。自分の思いが成就すればよい。あれが欲しいこれが欲しいと思うことを頼むことが、信心になってしまえば、金光教の信心も、だからほかの信心も変わらんことになる。信心とはどこまでも、わが心が神に向うのを信心というのじゃと。
わが心が神に向う。この方のことを生神生神と言うけども、皆もそのとおりのおかげが受けられる。この方がおかげの受け始めであって、皆もそのとおりのおかげが受けられると。そこのところに、お互いが、心づかせていただいて、いよいよ、信心とはわが心が神に向うていくということが信心だ。心が神に向うておる時には、不平もなからなければ、不足もない。妬みもなからなければ、憎しみもなし。ところが、私共の心の中に、妬みの心やら憎しみの心やら、不平やら不足やらおこっとる時には、もう、あなたの心は、神に向うてはいない時だと、悟らしていただいて、私共の一生生活の中から、ただただ、家業信行といわれる、合楽の最近の修行観から申しますとです、私共の心の中に不平やら不足やら、おこってはならんのです。
わが心が神に向うておる時には、有り難い。人がおかげを頂いておるといえば、有り難い。ところがわが心が神に向うていないと、人が幸せになりよると、羨ましかったり、歯がゆかったり、もう極端に言うと、それを邪魔したいような心すら、おこってくる。いよいよわが心が神に向うてない証拠。わが心が神に向うのを信心というのじゃ。
今日研修の時、今朝からのご理解の中に、先日から私、あれは門司港教会の牟田という先生から、合楽の教典感話を福岡のあるところで見せてもらった。大変立派な御本だから、できればお譲り頂きたいと言うてきとりましたから、送って差し上げておりました。そしたらその代わりというのでしょうか、御自分の書かれた素晴しい御本を送ってくださった。『親と子の金光教』という、素晴しい御本です。もう私共、表紙を見ただけで感心した。それは何とかという有名な漫画家、何と書いとるかな。朝日新聞なんかに書いとられる、やっぱ御道の信者さんだそうです。それでこの漫画にね、漫画が表紙に描いてある。これもう、犬がね、ワンワン吠え掛かっとるところが、描いてある。それでぶるぶる震えながら、震っとるところを描いてある。その次のところには、その、御神米を背中にかろうておるところを、で犬がこうやって眠っておるところ。そこをもうスタスタと歩いておるところが、漫画に描いてあるんです。もう、それ見ただけでね、いやあ有り難いなと思うんです。もう、神様はずしておる時にはね、もう、犬もワンワン吠えよる。ところが、わが心が神に向うておる時には、ね、犬もちゃあんとこうして眠っとる。その前をスタスタとこうやって歩いておる漫画が描いてあるんです。それはもう何とも言えん、その愛らしい漫画です。という、良いご本を送っていただいとる。
ま、一通りざっと読ませていただきましたが、その中にこういうことが書いてある。『名人が話すと、始めから最後まで感動する。上手がお話をすると、もうとにかく、時間を感じさせない』。そうですかね、やっぱ。もう、1時間2時間の話が、あっという間にしまえるごとある。もう泣かせたり、笑わせたりして、話の上手な人があります。名人が話すと、もう開口一番、もうどこの先生、一番初めは、こう挨拶をなさいますもんね。そして、「お足をどうぞお楽に」ぐらい言うといてから、ぼちぼち。あげなこと言うたっちゃ始めから感動せんも。上手な先生は、開口一番その一言が、皆の心を捉えてしまう。しかもそれが最後まで、そういう感動の中に、お話を聞かせると、こういう。徳者の場合は、お話をしなくても、心が潤い、心が助かると、書いてあります。確かにそうです。
それで私は、合楽の先生は、どういうことだろうか。上手でもない。もう、お話を聞き、テープをつけちょると、もうあげえんおよたれて話さんでんよかろう。もう、よっぽどようと聞きよらな、あんまり早口で言われるから、分からん。これだから、上手じゃない。だからというて、また名人でもない。というて、徳を受けとるわけでもないから、なら、黙っとって助かるということもない。というような話をしとりました。そしたら、佐田先生が今日その御理解を頂いてから、お兄さんのほうの先生が、今日発表の中に、あそこに書いといた、あんまり素晴しいから。「親先生のお話は、名人も上手も徳者もかなわん」と、書いてある。「それ以上のものだから」というのです。親先生の話は、ね、名人も上手も徳者もかなわん。それ以上の話だからというのです。
私は本当にそうだと思いました。皆さんもそう思われたら、有り難いです。先生のお話は、名人も上手も徳者もかなわん。それは、それ以上のお話なのだからというのです。皆さんもそう思われませんですか。そういうお話をお互い、日々頂いておるわけです。
そんならどういうお話かというと、私のお話は、30年間毎朝、ならお話を聞いていただくけれども、あの教典一冊の中から、一日とても、おんなじ話があったことがない。これはとても名人でもできない。上手だからというだけではできない。上手でもない、名人でもない。ですから、よっぽど頂く方の側がです、それ以上の話だと、いうならば、神の知恵をもって説かれておるのだと、神の声だ、と皆さんが信じて聞くところから、私は、合楽のお話は、有り難いということになるのじゃないでしょうか。
どういうお話かというと、わが心が神に向わせずにはおかんという、話である。いうならば、生神への手立てであり、生神へのその過程の体験であり、生神へ向うということは、このようにも有り難くて楽しくて愉快にまでもなれる道だと説くわけです。ですから、ただね、その根本的なところを信じて聞かなければです、いうなら、心が枯れておっては、どういう素晴しい名人上手以上の話であっても、皆さんの心の中に伝わって、それが行の様に現されるところまではいかない。心が生き生きとして、それも求道の心、道を求める心、生神への道を求める人であるならば、日々の御理解が、もう日々生神への手立てを行じていく事ができる。行じて行けばそこから、体験が生まれてくる、有り難うなってくる、楽しうなってくるという、お話なんです。それをね、本当に、名人上手徳者以上のお話であるぞと、いわんばかりに、神様が様々な働きを、私の上に皆さんの上に、現して見せてくださるわけです。
昨日、一昨日でしたでしょうか、一昨昨日だったでしょうか、「人を軽う見な。軽う見たらおかげはなし」。人を軽う見たら、だから人を軽う見ちゃならん、というだけではなくてです、いわゆる私共の心の中には、生神の性がある。神の氏子としての見方、そこには、例えば器量が良いの悪いの、といったようなこと、他の事でもそうでしょうけれども、一般ではもうあんなやつ、あんな人といわれるような人でも、よく申しますね、よく申しますというか、誰の言葉だっでしょうかね、福沢諭吉かなんかの言葉の中に、「罪は憎んでも、人は憎まない」というような言葉がありましょう。罪を憎んで人を憎まずという、ね。だから、素晴しいこれは、道徳的な言葉ですから、素晴しいのですけども、それでは神にもならなければ、おかげも伴わないのです、そういう見方であっては。人間を人間として見ただけでは、おかげにはならんのです。人間を神の性と見るところに、人を軽う見ることができないことになってくる。ためにはね、まず自分自身の心の中に神の性が宿っておるんだ。その神の性を日々現す為の稽古をしておるという人でなからなければ、神をいうなら人もまた、神という見方はでけんのだ。これ以上のいうならば、人間を尊重した見方はないのです。我神の子であるという自覚と、人もまた神の子であるという見方。そこには神を人を軽う見るということはできない。
これは人だけではない。物でも事柄でもそれを尊んで頂く。成り行きをと尊ぶということはそういうことである。品物を粗末にしてはならないという頂き方も、やっぱそういうことね。神様の御物と思うから、大事にせなければおられんのである。始末倹約で大事にするのと、訳が違うのである。神様の御物として、神の氏子として、神様が私共に下さる事柄、御事柄として受けるから、それを合掌して受けることもまた、できるわけであります。
私はそういう話をした。そしたら、山田さんが、頂いておられる。その朝、私よりも早く頂いてあるわけだから。朝の御夢に、その、寿司屋の小僧さんが、寿司桶を持ってきている。その寿司の桶の中に、人参がいっぱい入っておる。それを持って来られた御夢を頂いた。しかも、その人参、確かに人参だけれども、それにね、タイトルがついておる。どうついとるかというと、人神、ひとかみと書いてあったという。「いやあ、山田さん、あんた今日の御理解をそのままいただいとるたい。人を神として見たらね、いうなら寿司というのは、ことぶきをつかさどると書いてある。お互いが願っておるその寿を司るものは、私共が、人を神と見る、物を神様の御物と見る、事柄を神様の御事柄として、受ける生き方をすれば、あなたが願っておるところの寿を自由自在に司る事ができるほどしのおかげが受けられるぞと、教えておられる。不思議でしょ」。
それに福岡の伊藤さんが、出てこられた。伊藤さんも朝お知らせを頂いておられるのに、合楽教会の前に「人参」と大きな看板が出てる。しかも、上のところに「卸」と書いてある。卸し小売の卸が。この神様は不思議な不思議な神様ですね、それでもどげん考えても。
私のお話をしたことを、伊藤さんという女性と、山田さんという男性の方にです、そういう、それこそ噛んで含めるような説明を付けてやって、大坪が言うておる事、あれは大坪が言うておるのやないぞ、神が言うて聞かせておるのぞ。神の知恵をもって、大坪が皆に伝えておるのぞ。それは、このことだけででも、皆が合点せよといわんばかりのことではないでしょうか。これは日々そうなんです。
朝の御理解、「ああそれはあんた今朝の御理解たい」ということが、日々あります。そういう例えば、手の込んだというかね、働き、もう本当に神の心をね、しかも誰にでも分かるように、分かりやすく噛んで含めるように教えてくださって、神様の方が、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ、本当、いうならば、大坪が言っていることを、神の声と思うて聞いて、信心を進めていってくれよ。いわゆるわが心を、いよいよ神の心に近づいていってくれよ、ということじゃないでしょうか。
日々がそういうお話なのですから、名人上手ということよりも、それこそ徳者のいうならば、ものを言わんでも、助かる。ただ、助かるかもしれません。けれども信心がそれでは進みません。分からなければ。聞かなければ。どんなに、「ああ今日のお話は素晴しかった。息つく暇もないごたる、素晴しいお話であった」と、言うて帰っても、それはなら、落語を聞いた、浪花節を聴いたりするのと同じである。
その牟田という先生が、また書いてある。お話しというものにはね、まず序論がいる。本論がいる。結論があって、締め括らなければならない。というように、お話をするコツを話しておられますけれども、合楽の場合、皆さんが私の話を聞いてくださると、ね、いうならば、本論が先になったり、結論が一番先になったりするようなことがある。序論が最後の場合もある。いうならば、むちゃくちゃな話である。しかも、早口で、お話が下手である。とても名人なのではないのだけれども、それ以上のお話であるということをです、皆さんが今日佐田先生が発表しておる、その言葉のことを、皆さんがそう信じられるならば、「親先生のお話は、名人も上手も徳者も敵わない。それは、それ以上の話であるからだ」と、言うております。それ以上の、だからまたと聞かれないお話であるということなのです。
そういう話をです、私共の心の、枯れた心で聞いたところでです、それはのびるはずはありません。心が生きておらなければなりません。どんなに神様の働き、いうならば、ここに大きな電流が流れてきておっても、枯れた木やら竹やらをもって、こう触ったところで、ピリッとでんきやしません。ねえ、けどもこちらが、みずみずしゅうしておる。こちらが生き生きとしとれば、それはもうビリビリするように、響いてくるようなものじゃないでしょうか。
わたくし合楽のお話というのは、そういうお話。30年間それをしてきた。だから、ここでは生神が大挙して、ここへ出ていかれる。
いつでしたかね、大黒様がもう、転がるように出ておいでられるというのは、私は、徳者、いうなら生神の性根を頂いた人たちが、それを磨き上げた人たちが、それこそ打ち出の小槌一つで、人間の幸せの条件を振り出しえるほどしの人たちが、たくさん出ていっておる。
ここにはまだ、日本一というものはないけれども、修行生が育っておるということだけは、現在では日本一でしょう。いうならば、生神を目指しておる人たちばかりである。なるほど小売じゃなくて、合楽の場合は卸だなということが分かるじゃないですか。
人神ということは、ひとかみという。教祖様も、「この方の信心は、神人というのじゃ」と、仰っておられます。神人の理念である。合楽理念というのは、神人が幸せになっていく理念である。そういう私は、お話を皆さん日々頂いてくださって、皆さんの心がね、生き生きと弾んで、それを頂いて、行ずることの上にもまた、それを行の上に、いわゆる信行である、家業である。
もう、寒修行も半ば過ぎました。ご遠方の方達は、もうそれこそ、二日でも三日でもいいじゃないですか、一月間あっておるのですから。やはり合楽とともに、生神を目指す修行をさしていただいておるのですから、修行なしには神様にはなれませんよ。神に向うとるとは言えませんよ。もう、家業の行じゃからというて、家にじっとしたっちゃ、その家業の行の内容が高まらんです。
夕べは合楽会でしたが、午後から福岡のさっき申しました、人参卸と頂かれた伊藤さんが、夕べお参りして見えた。朝のいうならば、寒修行にあうことができないから、時々でもというので、昨日終のバスでみえられた。丁度合楽会にも参加された。そして、今朝の寒修行を頂いて、帰られた。工夫ですよ、皆さん。合楽と共にある、合楽の徳の船に乗っておる。そんなら合楽と共に足並みを揃えなければいけません。合楽で何かという時には、その何かに皆さんもやっぱり関わっておらなければいけない。そういう意味で、いうなら修行をね、さして頂かなければいけません。
今日の朝のお話の中に、昨日ある方がお参りをしてみえて、なかなか良い信心をなさる。「いよいよ今年は、合楽建設も具体的に進められるということでございますから、日々こうやっておかげは頂いておりますけれども、もう一回り大きな御用をさしていただくためには、どうぞおかげを頂かなければなりませんから」という、お届けをなさいましたら、私の御心眼に、この半分くらいな、紫檀で作った見事ないうならば、机です、けども飯台に使ってある。料理が一杯並べてある。だから、ここの上に並べられんから、畳の上にまでも、こう並べてあるという、お知らせを頂いた。だから、結局、その紫檀であるということは、その人の人間的な良い信心だという意味でしょう。けども、良い信心である、良い人であるだけじゃいかん。これが、ひとまわりもふたまわりも大きくなっていかなきゃいけない。たくさんの人がここに、周囲に集まって、ままになるようなおかげを頂くことのためには、もうひとまわりおかげ頂いて大きくならなあいけませんな、と言うて、結局水の信心どろの信心に徹底する以外ないですねえ、と言うて帰られましたその後にです、私が頂きましたことはね、玉水の湯川先生のお言葉が今の牟田先生のご本の中に出ておる、そのことを頂くんです。というのはね、こう書いてある。これもうお徳を頂かなければ、言えることではない。またできることでもないと思うんです、だいたいは。「したいことがしたくなくなる。しゅうごとないとがしたくなる」とあるです。したいことが、もうしゅうごとなくなる。して、今までしゅうごとなかったことがしたくなった。これはね、確かにそうです。もう、私くらいなものでも、それを実感として感じる。確かにそうだと感じました。これは、不思議です。私は、もうこれは好かん。好かんもんな好かん。もうついけるように言う人があるけれども、それでは、大きくなれません。嫌いなものにでも、それをほんとうにいうならば有り難く頂かれる信心をさせていただいて、自分の周囲にいうならば好きなもの、自分ね、というものがひとまわり大きくなるということ。皆さんもそうです。ひとまわりもふたまわりも大きうなって、大きな御用にも立たしていただきたい。そんなら、そういう修行に、専念精進さしてもらわなければいけん。
合楽では、そういう例えば、大きくなるためには、豊かな心になることのためには、しかもそれが、神の叡智をもって、こうあれよ、こうなれば、おかげが頂かれる。それも、とても茨の道を歩けとも、水をかかれとも、火の行をせよとも仰らん。それこそ、やろうと思えば、誰でもできる。一心発起すれば、誰でもできれるような、しかも楽しう有り難う、しかも行じていきよると、それこそリズムが出てくる。楽しうなってくるだけではなくて、愉快にまでなってくるという道が、日々説かれとるのですから、いよいよそれを受け止めるために、私共の心が、いうならば、修行によってこれが生き生きとしてくる。枯れておった、枯れかかっておるいうならば花なら花は、水を上げることはできませんけれども、それを焼いたり、叩いたりして水につけますと、また水をこう吸い上げることができるように、修行というのは、そういう意味でも、大切なんです。
どうぞ、寒修行にあっていない方は、寒修行を思い立つ。寒修行に参加さしてもらうおかげを頂きたいですね。どうぞ。